| Home |
2014.04.21
津軽藩御番所跡
蒔田地区は津軽藩の木材奉行が置かれ、
岩木川を渡る木材は全てここの御番所で検印されたほか、このあたりの河原で採れる葦萱の検査も行っていたそうですが、その場所や配置関係がどうであったのかは気になっていたところです。
今朝、神社の総代の方から、その標柱があることを聞きました。
この場所です。
そういえば何か標柱があったような程度で気はついていましたが、表示まで見ることはありませんでした。
県道沿いで、川側を望むと、
川側から望むと、
標柱が劣化により倒れてしまっています。
“津軽藩木材御番所跡”と表示され、昭和49年に金木町役場が建てたようです。
郷土史などに残されているものから拾っても、この場所であれば一致することとなりますね。
ただ、貴重なこの標柱が、このまま横倒れではいけませんね。
そして、今朝の岩木山です。
岩木川を渡る木材は全てここの御番所で検印されたほか、このあたりの河原で採れる葦萱の検査も行っていたそうですが、その場所や配置関係がどうであったのかは気になっていたところです。
今朝、神社の総代の方から、その標柱があることを聞きました。
この場所です。
そういえば何か標柱があったような程度で気はついていましたが、表示まで見ることはありませんでした。
県道沿いで、川側を望むと、
川側から望むと、
標柱が劣化により倒れてしまっています。
“津軽藩木材御番所跡”と表示され、昭和49年に金木町役場が建てたようです。
郷土史などに残されているものから拾っても、この場所であれば一致することとなりますね。
ただ、貴重なこの標柱が、このまま横倒れではいけませんね。
そして、今朝の岩木山です。
津軽藩木材御番所は元々神原にあったらしい、当時の神原は現在地より五百㍍ほど東にあった様ですが宝永三年に大水害があり多くの人馬が流され現在地に移転した様です。その時、御番所も蒔田へ移転したのではないかと思います。その旧神原は現在の蒔田下はずれに当ります。その場所は、当時の旧金木川と岩木川(現十川)の合流地点に当り、その場所に木材御番所あった様です。
昔は、旧金木川に沿って土手が築かれたようで、そのためくねくね曲がった土手となったのです。土手は蒔田までより築かれず、その後の新田開拓によって武田方面まで築かれた様です。
写真の木材御番所のすぐ裏手は旧金木川です。小さい頃、その辺一帯は低地となっており、古老は古川と呼んでいました。春、雪解の頃は川のような沼が出来たものです。
また、飯詰川・小田川・金木川と各支流の山から伐り出された木材がこの地に集約される地の利があったのかもしれません。木材御番所は彼方此方にあるものではなく津軽藩でもここ蒔田だけではないかと思われます。貴重な歴史の足跡だと思います。また、蒔田には藩主が宿泊する本陣もありました。
昔は、旧金木川に沿って土手が築かれたようで、そのためくねくね曲がった土手となったのです。土手は蒔田までより築かれず、その後の新田開拓によって武田方面まで築かれた様です。
写真の木材御番所のすぐ裏手は旧金木川です。小さい頃、その辺一帯は低地となっており、古老は古川と呼んでいました。春、雪解の頃は川のような沼が出来たものです。
また、飯詰川・小田川・金木川と各支流の山から伐り出された木材がこの地に集約される地の利があったのかもしれません。木材御番所は彼方此方にあるものではなく津軽藩でもここ蒔田だけではないかと思われます。貴重な歴史の足跡だと思います。また、蒔田には藩主が宿泊する本陣もありました。
2018/08/31 Fri 16:35 URL [ Edit ]
赤太郎
岩木川の東側に稲垣の地名が残っているのはそういうことですね。郷土史だけではわからない、蒔田地域の繁栄の歴史、当時の地域の人たちの生活などはとても気になるものがあります。蒔田に少しでも元気な様子があれば嬉しく、元気倶楽部の存在が頼もしく感じます。貴重な書き込みありがとうございます。
2018/08/31 Fri 21:00 URL [ Edit ]
| Home |