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2013.07.29
鳥居の鬼コの後ろ姿
我が家の近所、蒔田の鳥居の鬼っこです。
正面

やや右から

やや左から

若い鬼コで、引き締まったシャキッとした成りと顔立ちを感じます。
入口の石柱は“金毘羅”となっていますが、お堂の額表札は“琴平神社”となっています。

先日、元気村の帰り道に鬼コの背に文字が刻まれていることに気付きました。
5年ほど前に鳥居とともに朱のペンキが塗られ、刻まれた字が塗料に埋もれて読みにくくなっています。

脚立持参でじっくりと目を近づけて見ても・・・・・、

ほぼ確かな文字を拾うと?
明治○十六年 旧正月
川口 武
○○弥○郎
秋元○市
○○○太郎
白川○○
白川九○○
と、こんな感じでしょうかね。


金毘羅の狛犬が置かれたのが、石柱表札と共に大正9年6月20日です。
狛犬の石台の寄付芳名を覗くと、
川口武、徳田弥次郎、白川九郎助の名があります。
秋元で市のつく名は居ないです。
大正9年から若干ずれる年の設置かと思われます。
狛犬の寄付名簿では、最初に太宰との縁と元気村の元所有主である“傍島正之助”という名があり寄付額18円。
次に田中重吉10円とあり、鬼コの背に刻まれた名の3名は2円ほどの寄付ですから、鬼コは村あげての設置ではないのかも知れません。まあ、鬼コが置かれたのが明治36年としてら、村の若い衆らが置いたのかとも想像できますね。
この鬼コの存在が益々気になるところです。
加藤氏らの鳥居の鬼コの調査では、撫牛子八幡宮の既に大火で焼失した最初の鬼コは明治初年高山玄南という人が作ったとの由緒があるそうで、また、出始めは早くても明治中後期~大正初期と言われておりますから、36年も微妙なところですね。
塗料が劣化して磨り減ってきたら確認できるのかも知れませんから、期待しましょう。
そして、今朝家の周辺でアブラゼミを見つけました。孵ったばかりかも知れませんね。

で、岩木山は望めませんでした。
正面

やや右から

やや左から

若い鬼コで、引き締まったシャキッとした成りと顔立ちを感じます。
入口の石柱は“金毘羅”となっていますが、お堂の額表札は“琴平神社”となっています。

先日、元気村の帰り道に鬼コの背に文字が刻まれていることに気付きました。
5年ほど前に鳥居とともに朱のペンキが塗られ、刻まれた字が塗料に埋もれて読みにくくなっています。

脚立持参でじっくりと目を近づけて見ても・・・・・、

ほぼ確かな文字を拾うと?
明治○十六年 旧正月
川口 武
○○弥○郎
秋元○市
○○○太郎
白川○○
白川九○○
と、こんな感じでしょうかね。


金毘羅の狛犬が置かれたのが、石柱表札と共に大正9年6月20日です。
狛犬の石台の寄付芳名を覗くと、
川口武、徳田弥次郎、白川九郎助の名があります。
秋元で市のつく名は居ないです。
大正9年から若干ずれる年の設置かと思われます。
狛犬の寄付名簿では、最初に太宰との縁と元気村の元所有主である“傍島正之助”という名があり寄付額18円。
次に田中重吉10円とあり、鬼コの背に刻まれた名の3名は2円ほどの寄付ですから、鬼コは村あげての設置ではないのかも知れません。まあ、鬼コが置かれたのが明治36年としてら、村の若い衆らが置いたのかとも想像できますね。
この鬼コの存在が益々気になるところです。
加藤氏らの鳥居の鬼コの調査では、撫牛子八幡宮の既に大火で焼失した最初の鬼コは明治初年高山玄南という人が作ったとの由緒があるそうで、また、出始めは早くても明治中後期~大正初期と言われておりますから、36年も微妙なところですね。
塗料が劣化して磨り減ってきたら確認できるのかも知れませんから、期待しましょう。
そして、今朝家の周辺でアブラゼミを見つけました。孵ったばかりかも知れませんね。

で、岩木山は望めませんでした。
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