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2012.08.26
金刀比羅さま
今日も観測地の最高気温32.1℃で、8日続きの真夏日となっています。8月も後半なのに。
かなぎ元気村の鄙家は最近子供たちのお気に入りでとなっています。

娘はうどん、息子は天ぷらうどんとメニューも固定化、
私は青じそと梅干のトッピングがさっぱりの冷やしうどん。

こんな暑い日にはとても良し。
古民家は涼しいですね、「何で」と娘、「風が通るし、熱が天から抜ける」と私ですが良くは判らない。
そして、蔵の展示が少しずつですが充実してきています。

蒔田の歴史には欠かせない、蒔田金毘羅宮も展示に加わっていました。

紹介の文はこれだけですが、金刀比羅と紹介されています。

実は先日、突然の電話で神社のことを聞かれたのですが、私も詳しくはないし、村のお年寄りの方々で誰に聞いたらよいのかも分からないですね。電話で不足を謝ってしまいましたね。
そこで簡単にまとめたのですが、というかあちこちから引用して勝手に解釈したメモですが、
“蒔田“金刀比羅宮”について
金刀比羅、金毘羅、琴平?
勧請 年月日不詳
例祭日 四月二十二日
正式の祭日 十月十日(正式とは?)
格付け 無格社
(昭和二十一年十一月十日承認を得とは、格付け廃止後であるから、何らかの登録がされた?県?)
氏子 三〇(信仰する者同士のことだそうだが蒔田集落の戸数と一致するのか?)
住所職掌 豊岡村祠掌 和田豊前
現在の本堂は大正9年(1920)6月10日建立?昭和40年代一部改築していたような気がする。
社額には琴平神社と書かれている。
由緒
天明二年七月(1782年)津軽藩と縁故深き近衛家が津軽藩のために宮中内待所に於て、国土安全五穀豊饒の御祈祷執行なされ、津軽藩領内お守り札二十七通御朱札、御下賜り、その一通がこのお宮へ奉納されたことをみると、津軽藩からは相当重きを置かれた神社である。
旧藩時代に岩木川を上下する木材は、全て金木川口木材御改所において極印を受けた上でないと販売できない制度であったので、川舟が常に3、40艘も停泊していた川港であったことから、水路安全祈願の船頭衆の信仰が金毘羅大権現の勧請となったようである。
蒔田の昔をよく知る老人の中では、船問屋の能登屋という人が十三湊へ移住の際に残していった内神で、十三の湊迎寺(そうごうじ)へ地獄極楽の掛図を寄贈した人がその人で、同じく湊迎寺に土佐又兵衛筆十界図を寄贈した能登屋金右衛門の子孫は北海道石狩郡厚田町に子孫の中井米吉という人が居る筈といわれている。
鳥居の鬼
全国でも津軽地方にのみ見られるもので、津軽独特の神社信仰の形「鳥居の鬼コ」と言われ、魔除けの意味が込められており、鳥居のこの位置に据えられる風習がある。
弘前に詳しい武林正書氏は蕎麦屋を営んでいる。又、以前調査したガイドマップが手元にある。”
といった具合になりますが・・・・。今後詳しく理解しようかと思っています。
で、これは民家だった頃、元気村が改修する前の傍島さん家です。

今朝、岩木山は望めませんでした。
かなぎ元気村の鄙家は最近子供たちのお気に入りでとなっています。

娘はうどん、息子は天ぷらうどんとメニューも固定化、
私は青じそと梅干のトッピングがさっぱりの冷やしうどん。

こんな暑い日にはとても良し。
古民家は涼しいですね、「何で」と娘、「風が通るし、熱が天から抜ける」と私ですが良くは判らない。
そして、蔵の展示が少しずつですが充実してきています。

蒔田の歴史には欠かせない、蒔田金毘羅宮も展示に加わっていました。

紹介の文はこれだけですが、金刀比羅と紹介されています。

実は先日、突然の電話で神社のことを聞かれたのですが、私も詳しくはないし、村のお年寄りの方々で誰に聞いたらよいのかも分からないですね。電話で不足を謝ってしまいましたね。
そこで簡単にまとめたのですが、というかあちこちから引用して勝手に解釈したメモですが、
“蒔田“金刀比羅宮”について
金刀比羅、金毘羅、琴平?
勧請 年月日不詳
例祭日 四月二十二日
正式の祭日 十月十日(正式とは?)
格付け 無格社
(昭和二十一年十一月十日承認を得とは、格付け廃止後であるから、何らかの登録がされた?県?)
氏子 三〇(信仰する者同士のことだそうだが蒔田集落の戸数と一致するのか?)
住所職掌 豊岡村祠掌 和田豊前
現在の本堂は大正9年(1920)6月10日建立?昭和40年代一部改築していたような気がする。
社額には琴平神社と書かれている。
由緒
天明二年七月(1782年)津軽藩と縁故深き近衛家が津軽藩のために宮中内待所に於て、国土安全五穀豊饒の御祈祷執行なされ、津軽藩領内お守り札二十七通御朱札、御下賜り、その一通がこのお宮へ奉納されたことをみると、津軽藩からは相当重きを置かれた神社である。
旧藩時代に岩木川を上下する木材は、全て金木川口木材御改所において極印を受けた上でないと販売できない制度であったので、川舟が常に3、40艘も停泊していた川港であったことから、水路安全祈願の船頭衆の信仰が金毘羅大権現の勧請となったようである。
蒔田の昔をよく知る老人の中では、船問屋の能登屋という人が十三湊へ移住の際に残していった内神で、十三の湊迎寺(そうごうじ)へ地獄極楽の掛図を寄贈した人がその人で、同じく湊迎寺に土佐又兵衛筆十界図を寄贈した能登屋金右衛門の子孫は北海道石狩郡厚田町に子孫の中井米吉という人が居る筈といわれている。
鳥居の鬼
全国でも津軽地方にのみ見られるもので、津軽独特の神社信仰の形「鳥居の鬼コ」と言われ、魔除けの意味が込められており、鳥居のこの位置に据えられる風習がある。
弘前に詳しい武林正書氏は蕎麦屋を営んでいる。又、以前調査したガイドマップが手元にある。”
といった具合になりますが・・・・。今後詳しく理解しようかと思っています。
で、これは民家だった頃、元気村が改修する前の傍島さん家です。

今朝、岩木山は望めませんでした。
みふみふ
先日、能登屋金右衛門と中井米吉について質問をしましたみふみふです。
書き込みをほとんどしたことがないこともあり勝手がよく分からず、先日はSecretでコメントしてしまったのですが、お返事をいただける場合は公開にてコメントしていただいて問題ありません。
どうぞよろしくお願いいたします。
書き込みをほとんどしたことがないこともあり勝手がよく分からず、先日はSecretでコメントしてしまったのですが、お返事をいただける場合は公開にてコメントしていただいて問題ありません。
どうぞよろしくお願いいたします。
2014/11/10 Mon 22:26 URL [ Edit ]
赤太郎
返事が遅れてすみません。図書館で確認したので・・・。
ご質問の返事ですが、
蒔田から十三湊へ移住していった能登屋某と能登屋金右衛門は同じ人物でしょうか?
金木郷土史において、“蒔田の古老間では同じ人である云々と語られている。或いはそうかも知れぬ。”と書かれています。
金右衛門の子孫に中井米吉という人が居る筈、という話は口伝えでしょうか。何か書かれた記録のようなものがあるのでしょうか?
“湊迎寺通信” から引用しているのも郷土史です。
また、郷土史の編集長を務めた白川兼五郎さんの交友で、蒔田の舟問屋の子孫である白川竹治さんと金比羅宮の四国本山へ行ったことがあると白川さんの著書“金木今昔物語”に書いているので、白川兼五郎さんもその辺のことは調べたのかも知れない。
白川兼五郎さんは既になくなっていますが、長男の昭麿さんは、現在市選挙管理委員会委員長であり、白川竹治さんのご子孫は現在も蒔田に住んでいます。
ご質問の返事ですが、
蒔田から十三湊へ移住していった能登屋某と能登屋金右衛門は同じ人物でしょうか?
金木郷土史において、“蒔田の古老間では同じ人である云々と語られている。或いはそうかも知れぬ。”と書かれています。
金右衛門の子孫に中井米吉という人が居る筈、という話は口伝えでしょうか。何か書かれた記録のようなものがあるのでしょうか?
“湊迎寺通信” から引用しているのも郷土史です。
また、郷土史の編集長を務めた白川兼五郎さんの交友で、蒔田の舟問屋の子孫である白川竹治さんと金比羅宮の四国本山へ行ったことがあると白川さんの著書“金木今昔物語”に書いているので、白川兼五郎さんもその辺のことは調べたのかも知れない。
白川兼五郎さんは既になくなっていますが、長男の昭麿さんは、現在市選挙管理委員会委員長であり、白川竹治さんのご子孫は現在も蒔田に住んでいます。
2014/11/11 Tue 20:09 URL [ Edit ]
みふみふ
赤太郎様
わざわざ図書館で確認いただいたとのこと。お手間、お時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした。また、早々にご返事をいただき有難うございました。
いずれも伝聞であって、事実として書かれたものではないようですね。
能登屋金右衛門は自分の先祖のひとりなのでは?と思ったのですが、それを証明するものはないことが分かりました。そうではあっても、赤太郎様の記事を読んで、先祖をひとり見つけたのでは?とワクワクしてとても楽しかったです。
明治よりも前の家系のことを今から知ろうとすると、なかなか容易にはいかないものですね。こんなことなら、祖父母が生きているときにもっといろいろなことを訊いておけばよかったと後悔することしきりです。
今後も赤太郎様のブログを拝読させていただき、岩木山の写真を見て津軽に思いを馳せたいと思っております。
あらためて有難うございました。
わざわざ図書館で確認いただいたとのこと。お手間、お時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした。また、早々にご返事をいただき有難うございました。
いずれも伝聞であって、事実として書かれたものではないようですね。
能登屋金右衛門は自分の先祖のひとりなのでは?と思ったのですが、それを証明するものはないことが分かりました。そうではあっても、赤太郎様の記事を読んで、先祖をひとり見つけたのでは?とワクワクしてとても楽しかったです。
明治よりも前の家系のことを今から知ろうとすると、なかなか容易にはいかないものですね。こんなことなら、祖父母が生きているときにもっといろいろなことを訊いておけばよかったと後悔することしきりです。
今後も赤太郎様のブログを拝読させていただき、岩木山の写真を見て津軽に思いを馳せたいと思っております。
あらためて有難うございました。
2014/11/11 Tue 23:53 URL [ Edit ]
赤太郎
家系は有名な武将ですら不明なものが多いらしいので難しい様です。
私はまだ自分の先祖を調べようとは思ったことが無いのですが、
親族がいちど調べようとしたらしいのですが、確実な資料は無だと言っていました。
今後知りたいと思うときがあるはずです。
これからもこのブログを見守って下さい。
今後ともよろしくお願いします。
私はまだ自分の先祖を調べようとは思ったことが無いのですが、
親族がいちど調べようとしたらしいのですが、確実な資料は無だと言っていました。
今後知りたいと思うときがあるはずです。
これからもこのブログを見守って下さい。
今後ともよろしくお願いします。
2014/11/12 Wed 21:16 URL [ Edit ]
メール確認
2015/08/08 Sat 20:46 URL [ Edit ]
金刀比羅さま 2 同じことを書いてしまいました。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
2018/09/01 Sat 23:09 URL [ Edit ]
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